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ふるむーん十五夜日記 (1)           ヤルデア研究所 伊東義高



<写真・イラストは残念ながら節約>


  鎌倉時代の紀行文に十六夜日記なるものがある。阿仏尼が亡夫:藤原為家の遺産相続に絡んだ訴訟のために京都より鎌倉に旅した時のもので、出立事情・道中風物記・鎌倉滞在記の三部から成るもので、贈答歌や訴訟祈願の長歌が織り込まれた文学的価値の高いものである。出立の日が建治三年十月十六日であったことから「十六夜日記」と名づけられた。

   平成時代の紀行文に十五夜日記なるものが出来た。ヤルデアが妻:伊東千鶴子の花博覧会願望に絡まれて千葉より四国・淡路と旅した時のもので、出立事情・道中風物記・花博観察記の三部から成るもので、百人一首の替え歌や川柳が織り込まれた独り善がり価値の高いものである。旅の計画がJRのフルムーンパスに沿ったことから「ふるむーん十五夜日記」と名づけられた。

出立事情の章
  二月か三月のことか定かではないが、清水市在住の私の弟から電話があった。九十歳になる母の健康があまり優れないので、再来年に予定している亡父の三十五回忌を繰り上げて、今年三十三回としてささやかな法事を行ないとの相談があり、四月十六日(日)に縁の近い親族だけが集まっての追善供養を清水の菩提寺と実家で行なうこととなった。

  そのころ、一九九〇年の大阪花の万博につぐ国際園芸・造園博が本年三月十八日から九月十七日まで淡路島において開催されるの案内がいろいろなメディアで紹介されていたようである。花に無頓着な私は気づかなかったが、家の庭中全てを花壇とし、屋上・ベランダなども全てプランターで敷き詰めてなお飽き足らない花好きの妻は見逃すはずがない。近所の好事家達とも情報交換、データ・コピーをし合って熱くなっていた。

  日ごろは異質結合的発想をあまりしたことのない妻の大脳はこの時、急速回転をしたようである。「ねえ、清水の法事に行くついでに、淡路の花博にちょっと行ってみない?」と打診があった。私は講演・研修講師の仕事柄、日本全国歩き回っているが、妻は結婚以来同窓会関係で仙台旅行をしただけであり、夫婦旅行も三年前の平成九年三月二十三日〜二十五日に新婚旅行と同じコース:奈良・京都巡りの旧婚旅行を一回しただけである。同年齢の夫婦達はよく一緒に旅行をすると聞くたびに身につまされていたところでもあり、即座に「ウイ、マダム」と返事をした。
       ・久々の 休み長閑(のど)けき 春の日に 浮き浮き心で 旅を企つ
       (久方の 光 長閑けき 春の日に 静(しづ)心無く 花の散るらむ)

  どのような旅程を計画するかということは、言われなくても私の仕事である。初めは「千葉→清水→淡路→千葉」の計画であったが、本年三月に仕事のついでに姫路城を久しぶりに見物した際のスナップ写真に妻が興味を示したことと、姫路城脇の牡丹園が四月には咲くだろうと聞いていたことを思い出して、「姫路経由」の旅行計画を提案したところ、即刻裁決が下り「ついでに、四国巡りもしてみては?」の追加指示もあった。そして「花博に行ったら何か買うかもしれないから、淡路は最後がいいわね」との条件付けもあった。

  妻方の両親と私の父の菩提を弔う四国遍路であるとの位置づけをして、城や花はついでであるということにした。両親のお陰で良心はとても穏かになった。

  いつも私が仕事で北海道から沖縄まで歩いていると自慢げに言ってはいるものの、実は四国四県と南九州の宮崎・鹿児島には行ったことがない。四国に行けるとは有り難い。便乗の好機到来とばかりに、さっそく計画拡張作業に取り掛かった。前提条件から必然的に、四国渡りは岡山経由となる。岡山には後楽園や岡山城がある。姫路城・岡山城…と考えていたら、三月十九日の亡き義父・義母の法事の際に旅好き・城廻りマニアの義妹:由美子から諸国の名城について吹き込まれ聞き入っていた妻の様子が思い出され、今回の旅の縦糸に城を織り込むこととした。

  愛媛には坊ちゃんの道後温泉の他に松山城がある。土佐の高知にははりまや橋・桂浜と並んで高知城がある。インターネットで調べたら丸亀城・高松城・徳島城も車窓から展望できそうである。観光行程図と列車時刻ダイアグラムを作成する。四国内の旅程は組み難い。見たい所は多いのだが、JRのダイア接続が思うに任せないのである。全部で四泊五日の旅となる。旅馴れない妻同伴であるから、ゆとりと確実性は必要条件である。特急券など抑えておくべきものはしっかり抑えておく必要がある。

  さっそく、旅行計画書を持って最寄りのJR都賀駅で相談してみる。「お客さん、これならフルムーンパスのほうがお得ではないですか?」といわれた。かって高峰三枝子が巨乳を抱えて露天風呂に入っているポスターで売り出したあの「老人向け旅行割引き」のことらしい。"老人?年寄り?私は未だ若い、まだ六五歳だし、妻も六十歳……。あれ、それほど若くもないのか……"どうやらフルムーンパスは夫婦合計年齢が八八歳を超えていればよいとのこと、年齢確認も私の自動車免許証を一瞥するだけのことである。

  都合の良いことにフルムーンパスには五日間、八日間、十日間の三種類ある。その期間内ならJR乗りたい放題で、ほとんどの特急券やグリーン券の代金も含まれる。巧く計画すれば旅の全てをグリーン車で行ける。マージャン好きの妻なら役満の「オール・グリーン」である。駅窓口で新刊の時刻表と首っ引きで旅程を再編成し、必要な指定券と併せて五日間コースのフルムーンパスを購入する。八万五百円である。概算費用を二十万円くらいと見込んで、前述の姫路近くでの研修出講料を当てることにして、銀行で引き出してきたばかりのピン札から払った。

  帰宅してから、インターネットを使って、ホテルの選定と予約をした。妻の希望で和風旅館より洋式ホテルを探したが、魚好きの妻が鯛の生き造りの魅力に妥協して、一つは和風ホテルとした。またレベルも一定水準以上の範囲でバラエティを設けた。インターネット予約とは便利なご時世である。

  旅行馴れしている私の準備はほんのちょっとである。妻のほうは前日の自らが幹事役をした東京でのクラス会を終えて帰宅してから遅くまでゴソゴソしていた。荷物運搬人としてはいささか気になり、意見具申も考えたが彼女の旅行イメージを尊重することとした。
       ・フルムーン いつのまにやら 有権者
       ・この旅は 暇も取り敢えず 手向け旅 花見る順路 神さんのまにまに
       (此の度は 幣(ぬさ)も取り敢へず ま手向山(たむけやま) 紅葉の錦 神のまにまに)


道中風物詩 第一章

旅立ちの巻
  四月十六日(日) 何時もより少し早めに起床、朝食もそこそこにいざ出発。玄関には大きなずっしりバッグが二つと小さな荷物が二つ三つ……えっ、これをずっと持っていくの? 最寄りの都賀駅までは妻の足で約十五分掛かる。少し時間があるので、私が自家用車で妻と荷物を駅に運び、家に戻ってから徒歩で駅に行くこととなった。先が思いやられる。

  都賀から東京までの快速電車もグリーンである。日曜日の朝は空いている。アブダクション研究会で私が発表した時の議事録ゲラ刷りの校正をしているうちに東京に着く。乗り換えに歩く五分ぐらいの距離だが、両腕にずっしりと重力を感じる。

  バブル崩壊で出講の仕事が減った私には、ひかりのグリーンは久しぶりである。窓側の席を妻に勧めたが、明かるさがちらつく窓側は落着かないからと通路側を選ぶ。この後、全旅程で私は窓側に座った。昨日の雨は嘘のように晴れ上がり、「これが春です」というような空の色であった。よい旅になることだろう。バッグの中の折り畳み傘は途中から宅急便で送り返そう……。

清水の巻
  静岡からJR普通で清水に戻り、タクシーで実家に到着した。早速、仏壇に菓子折りを供える。これで荷物が一つ減った。兄弟や親戚もそろそろ集まり出す頃合いで、ちょうど良い時刻の到着であった。東京から三年前に物故した姉の夫:伊東喜一さんが見えた。去年、"小渕恵三さん"を患い、その後遺症で歩行困難で、杖を離せないとのことである。言語もやや不明瞭である。

  それに引き換え、心配していた母の顔色は良く、安心した。相変わらずよく喋る。名は「静」であるが、名は体を表すとは限らない。母のお喋りは心身健康のバロメーターである。

  当てがわれた三階の部屋で喪服に着替える。あれっ、ワイシャツがない。慌てた妻が入れ忘れたらしい。急遽、弟のワイシャツを借りる。首回りが合わずに、ボタンが止まらないが何とかごまかそう。親戚の人と対面する時は、それとなく手を顎に持っていけばごまかせるだろう。

  一同揃ったところで、さほど遠くない菩提寺、東明院に向かう。寺の匂いは昔と変っていない。本堂は古び、疲れていた。坊さんは代わっていた。本堂には座布団席と椅子席があった。母や義兄を椅子席に案内した手前、正座苦手の私は座布団席に陣取らざるをえない。見ると二列目の端に石油ストーブがある。それほど寒くはないのだが、「年寄りは火の側がよい」と座り込む。二列目は坊さんのほうから見て、胡座をかいていてもばれないだろうとの思惑である。

  例のように、かいきょうげ開経偈から始まりはんにゃきょう般若経等をつつがなく合唱し終え線香を上げて、裏手の墓所でもしめやかに供養した。石の塊を拝むのではないと在りし日の亡父の面影を懸命に思い出しつつ、順に従った。
       ・人はいさ 心も知らず 故郷(ふるさと)の 寺ぞ昔の 香に匂ひけり
       (人はいさ 心も知らず 故郷は 花ぞ昔の 香に匂ひけり)

  実家に戻ってから、打ち抜き広間での仕出し料理による精進落としである。早速ネクタイを外してセーター姿となる。生まれたばかりの姪の子も2人参加して、結構賑やかである。従兄弟に当る年寄り親戚と若い甥姪の境界に陣取る。向かいに弟夫妻・お喋りお静さん・椅子義兄である。親戚や甥達の中に面識の少ない人もいたが、ひとたび酒が入れば「やあやあ」である。
       ・誰をかも 知る人にせむ 厄落とし 話しも昔の 侭(まま)ならなくに
       (誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに)

  さすが清水だけのことはある。出てくる料理は魚尽くしである。美味い、美味い。気が附いたら人より早く平らげていた。食うものがなくなれば後は呑むだけである。ビールから始まり、お銚子となり、一升瓶となった。必然的に私の弁舌はよくなる。中絞めで年寄り従兄弟や子供たちが退席した後、生きのよい甥達を相手に冷や酒を重ね、唾を飛ばした。喋るのは商売である。相手の数には引けを取らない。ますます弁じ、ますます飲んだ。
       ・忍ぶれど 色に出にけり 我が食い気 皿も食ふかと 人の問ふまで
       (忍ぶれど 色に出にけり 我が恋は 物や思ふと 人の問ふまで)

<写真(精進落とし)…略>

  四月十七日。気づいたのは翌朝六時、三階の床の中であった。心地よい二日酔いが微かに感じられた。弟は既に朝食の支度で勝手場に立っていた。お礼の一端にと犬の散歩を買って出る。ゴールデン・リトレバーの「ミック」とは顔なじみである。鎖の外し替えに既に狂喜乱舞している。大きな糞取りセットを持って、人影も未だ少ない朝の町にでる。なるべく日ごろの散歩コースにならないように、併せて私の思い出が濃く残っているコース選んで歩く。

  清水も高齢化しているのかな。出会う人はみな年寄りである。それとも、若い者は未だ寝ているのかな。そうだろう。犬は張り切っている。こちらも負け時と手綱を引く。約一時間歩いたら、犬の息が荒くなってきた。普段の運動不足である。
       ・朝飯の 前の鍛練 忍ぶれど 余りてなどか 腹の空くらむ
       (浅茅生の 小野の篠原 忍ぶれど 余りてなどか 人の恋しき)
       ・朝飯も 食はねば息も 絶へ絶へに 現はれ渡る 鈍い足取り
       (朝ぼらけ 宇治の川霧 絶え絶えに 現はれ渡る せぜ瀬々のあじろぎ網代木)

  実家に戻って朝食である。弟夫妻の心遣いで「茹でシラス」と「黒半ペン」がでんとテーブルの上にある。シラスはカタクチイワシの稚魚で、関東でも手に入るが塩分が濃すぎる。地元清水では塩分がほとんどない新鮮なシラスが食える。生シラスに越したことはないが、茹でシラスでもすごく美味いのである。

  半ペンには吸い物にいれるサメなどの白身魚から作ったふわふわした「白半ペン」もあれば味噌煮にも使われるイワシなどから作った「黒半ペン」もある。東海地方では昔から黒半ペンである。白は高級でお金持ちの食べ物、黒は下級で貧乏人の食べ物と教えられて育った。金持ちも貧乏人もない。子供の頃の刷り込みで、いまだにこの黒半ペンが好きである。

  魚好きの妻も清水のシラスと半ペンの大ファンである。私が公私の用事で清水に行く時は必ず土産にシラスと半ペンは忘れることが出来ない。団地の中に同好の士(婦)がいるらしく、お裾分けの分まで買って帰るのが常である。

  半ペンとシラスを心置きなく食べて、出立である。喪服は弟に宅急便で後日送ってくれるように頼んだ。ついでにと、シラス・半ペンとアラメも送ってもらうように頼んだ。アラメ(荒布)とはコンブ科の海草で、黒褐色の細長い葉は一面皺だらけである。葉肉はコンブほど厚くはないが。乾燥アラメを水で戻して若タケノコとトリ肉と煮たものは美味い。アラメも貧乏人の食べ物のせいか、関東では見たことがない。しかし東京生まれの妻は海産物好きなせいか、貧乏生活に馴れたせいか、これも大好物である。四月はタケノコの出始めだが、毎年一年分ずつ補充している我が家のアラメのストックも切れたところなので十束(一束、百円から百五十円)頼んだ。千葉に帰ってから楽しみである。

  妻は弟嫁とガーデニング友達である。台所の出窓で美しいすらりとした若葉を出しているアボガドの水耕栽培法を伝授され張り切っている。そして小さな花の鉢を幾つか貰っていた。宅急便のついでということらしい。

姫路の巻

<姫路市内地図…略>

  弟の草薙まで自家用車で送ってもらい、静岡まで東海道線の普通で行き、底から新幹線に乗り継ぐ。ひかり号のグリーン車は空いていた。筋向かいのボックスは白人グループである。ときどき英語が聞こえてくるが邪魔になるほどではない。車窓の景色は見馴れているので文庫本を読む。妻も週刊誌を読んでいる。名古屋も京都も駅前のタワービルが完成している。車内販売に美味いものはない。昼前に姫路につく。姫路城は豊臣秀吉築城の国宝である。

  三月にきた時の記憶が鮮明に残っている。コイン・ロッカーに荷物を入れて、アーケード街を北上する。先月立ち寄った本屋や百円ショップを横に見ながら、うろ覚えの姫路観光案内をかいつまんで妻にする。妻も生返事を返す。

  堀の鯉を確認して大手門をくぐる。「世界遺産 姫路城」と彫り込んだ大きな石碑の前でお約束の記念写真を撮る。ちょうど老夫婦がお互いに写真を撮り合っていたので、「ご一緒のところをお撮りしましょうか」とあちらのカメラのシャッターを押す。相手の礼を抑えて、「済みませんが、私たちのもお願いできませんか」と依頼する。観光地はこの手で、写真を撮ることに馴れているので、三脚もセルフ・シャッターも不要である。

  入城する前に、左手にある牡丹園を覗いてみる。もう咲いているだろうとの期待は見事に裏切られた。先月の風景と変わらない。妻も落胆していた。

  気を取り直して入場券を買って、大門をくぐる。天守閣が眩しく迫ってくる。満開の枝垂れ桜が重々しくお辞儀して出迎えてくれる。
       ・白鷺城 枝垂れ桜の お出迎え
      ・心から 懐かしと思へ 山桜 花より他は 知る人ぞなし

       (諸共に 哀れと思へ 山桜 花より他に 知る人ぞなし)

  先ずは左手の西の丸に入る。千姫の居城である。スリッパに履き替え、脱いだ靴をビニール袋に入れて持つ。歴史を感じさせる木造の重みである。格子窓から見る天守閣は庭の桜を裾回しにして一段と美しい。
       ・白鷺城 満開の桜 裾模様

  長く続く回廊を歩く。古城などは変に観光用に細工をせず、在るがままに見せるのは一つの見識であろう。しかし、何もないがらんどうの小部屋が続くのも味気ない。時代考証をされたつづら葛や箪笥などの什器が、たとえ後世の造作品であっても置いてあれば良いのに…とは後刻での妻の感想である。同感である。一部屋だけ、けばけばしいいでたちの千姫が侍女と貝合わせ遊びをしている模型があったが、そのミスマッチは二度目でも頂けなかった。

  また、半暗闇に横たわる高い敷居は目が悪く、足腰の弱い高齢者(私達のことではない)が増えてきている現代では、それなりの安全対策があってもよいだろう。

  ようやく暗いトンネルをぬけて、一旦庭に出て天主に向かう。靴は履き替えである。外人観光客が目に付く。白人・黒人・黄色人…。階段と門が続く。城壁には鉄砲窓が並ぶ。四角・三角・丸といろいろな形があると妻は感心する。途中で花見酒によった赤ら顔の老爺ガ石段に蹲っていた。昼間から花見酒に浮かれてのことだろうが、この人どんな人生を歩いてきたのだろうか…とふと思った。妻が石段登りに喘ぎだしたので、寄り道になる空っぽの倉庫などはパスして天守閣を目指す。

  天主の中も暗かった。しかし、急な階段には金属製の手摺りを造り付けて安全に配慮している。休み休みして最上階に着く。白鷺城のしゃちほこは黒い。見晴らしは大変よい。白く浮き出る西の丸、遠くに霞む姫路市街、目の下の三の丸公園…。風がさわやかである。
       ・古(いにしへ)の 吉備(きび)の都の 白鷺城 今日九重に ビルに囲まる
       (いにしへの 奈良の都の 八重桜 今日九重に 匂ひけるかな)

  くだり階段は楽だが恐い。鴨居の低いところには日本語・英語で注意書きがしてある。背の高い外人娘が頭をぶっつけそうだったので、「マインド・ヨァ・ヘッド」とそのままに声を掛けた。彼女は振り返って微笑んだ。

  天主を降りて中庭の桜をしばし楽しむ。いにしえ人も楽しみけん桜の古木、幹は砕け、肌は破れながらも毎年、若い枝、新しい花を付けてる山桜、里桜、彼岸桜、染井吉野…はなやかに、しおらしく、うつくしく…そして静かに咲く。はらはらと散り掛かり、散り去る風情にもののふ武士もあきゅうど商人も哀れを感じたのであろうか。
       ・花の色は 匂ひにけりな ひたすらに 一月前に 眺めしときより
       (花の色は 移りにけりな いたずらに 我が身世にふ経る 眺めせしまに)
       ・ 風誘ふ 桜の庭の 雪ならで 古り行くものは 我が身なりけり
       (花誘ふ 嵐の庭の 雪ならで 経(ふ)り行くものは 我が身なりけり)

  白鷺城の近くにある回遊式庭園「好古園」にも寄る予定であったが、時間が押してきたので断念することとした。堀の池にさよならを言ったら「またコイ」と言って尾を振っていた。可愛く見えた。また来たいものである。
       ・堀の鯉 また来い来いと 尻尾振り

岡山の巻
  土産の煎餅と遅い昼飯用の「変わりお握り」を買い込んで、岡山に向けて新幹線に乗る。姫路で昼食を摂ってもよかったのだが、何処でも食べられる蕎麦かラーメンを食べるために何分かを犠牲にするのは惜しいと我慢をしていたのである。座席は指定であったが、無指定でもよかったほどにガラガラであった。

  すぐ後ろの席の韓国人達のおしゃべりに若干辟易しながらも、一風変わったお握りを面白く食べた。まもなく岡山である。

<岡山市内地図…略>

  私は十年以上前に岡山に来ている。後楽園には来ている。岡山城の記憶はない。インターネットで調べた時に両者の関係がよく分からなかった。駅で聞くと両者は隣り合っているが、駅からの距離は徒歩の距離でないとのことなので、ためらわずタクシーに乗り込む。

  途中、路面電車以外に見るものはなく十分足らずで岡山城のある烏城(うじょう)公園入り口につく。大石碑前で写真を撮って中に入る。眼前に真っ黒な烏城が聳えていた。黒い味付け海苔を全体に貼り付けたような感じである。白鷺の次が烏とはよく出来たものである。ここでも老アベックとペア写真を撮り合う。城良し、人良し。うじょう烏城整々、うじょう有情生々である。

<写真(烏城前の二人)…略>

        ・白鷺城 遠く離れて 烏立ち
       ・黒海苔を べったり貼って 烏城でき
       ・色白に 写りますよと 烏城まえ
       ・来る事の 久しく無くば 中々に 城をも庭も 想ひいだ出せず

        (逢ふ事の 絶へてし無くば 中々に 人をも身をも 恨みざらまし)

  白鷺城の天主登りで辟易した妻も天主は三層と聞き勇んだ。城に入ると一階に倉庫があり、米俵・水瓶、塩桶などが四百年前らしく置かれていた。勉強になる。二階にはいろいろな展示物や喫茶店・土産物店があり、その横に何とエレベーターがあった。ためらわずに狭いエレベーターに乗る。天主は狭かった。西側の窓から見ると、足元に青や白などの色の花を植え込んで作った兎ちゃんの地上絵花壇があった。キレイではあったが古城には似合わなかった。北側の窓からは後楽園が見えるはずだがそれらしいものは見えない。帯状の森に囲まれた平坦地が見えるだけである。学校の庭にも見える。居合わせた観光客に聞いたが要領を得ない。

  エレベーターで降りて、ご近所への土産にときび団子を買う。半月ぐらい日持ちするように作られている。

  広島・岡山地方がきび吉備の国といわれたのは、日本書紀に孝霊天皇の皇子、きびつひこのみこと吉備津彦命が派遣され、子々孫々統治したとあるが、やはり五穀の一つのきび黍(きみ黄実の転)がよく採れた土地ということからであろう。安土桃山時代の桃太郎伝説と桃や黍団子は地域密着であろう。因みに五穀の一つのあわ粟(古くは「あは」と読む)がよく採れた土地にあわ阿波の国(徳島県)、あわ安房の国(千葉県)がある。黍や粟が主食の貧しい時代から白米飽食の時代になり、黍団子が珍しいからと珍重されるのは時代の進歩と素直に喜ぶだけでよいだろうか。

  烏城と白鷺城とはいろいろな面で対照的である。天主は五層と三層、城壁は白と黒、しゃちほこは黒色と金色、入城は上履きと土足、登閣は徒歩とエレベーター、城内展示物は少々と沢山…などである。これは意識的観光戦略かもしれない。

  外に出て兎の地上絵花壇に寄ってみた。妻の解説によるとヒヤシンス、ラベンダー、ムスカリなどで作られているとのこと。孫の玲奈がいたら喜んだであろうにと悔やまれた。

城の北側に出ると大きな川(旭川)があり、大きな鉄橋が掛かっていた。川辺にはモーターボートが何隻か係留されていた。古城と和風庭園を結ぶ風景に鉄橋やボートは異質な景物である。びくともしない鉄橋を渡り終えると後楽園の南門である。
        ・ 岡山は 城と庭とで 飯を食い
       ・ 来ることの 絶へて久しく なりぬれど 名こそ何とか なほ覚えけれ

       (滝の音(ね)は 絶へて久しく なりぬれど 名こそ流れて 尚(なほ)聞こへけれ)

  広い芝生庭園が眼前に広がった。芝生、ローンは西洋式庭園のようにも思えるが、芝は元来、中国・韓国・日本に古代から自生するもので、庭園用に芝生として栽培されるようになったのは奈良時代とかなり古い。その後、築山や茶庭として愛用されてきている。
       ・後楽園 ただ広いのが 自慢なり

  振り替えると烏城が静かに見守っている。ただ広い芝生をよく見ると所々に小さな淡い紫の花が咲いている。野すみれというそうだ。なんだか見下げたネーミングである。木立の小山があり、広い池があり、遠くに藁葺き屋敷が見える…やはり和式庭園である。見ているうちに十年以上前の来園時の記憶が少しずつ甦ってくる。四方陣のようなせいでん井田には麦が若々しい穂を揃えていた。田舎者の私には「麦が鑑賞物か…?」と考えさせられた。その隣は茶畑である。茶っきり節の清水生まれの私にとっては珍しくもないが、これを珍しいと思う日本人も多いのだろうな…と心中で呟きながら歩を進めた。

  出口近くに鶴舎があり鳴き声がした。往時はこの庭に多くの鶴が飛来して餌を啄ばみ、踊りを踊ったのであろう。元禄の池田綱政公が茶を飲みながら喜んだのだろう。ぐるりと回って、鶴鳴館・延養亭・能舞台のほうに行く。芝生の中で作業している人がいた。見ると野すみれが抜かれていた。哀れ…を感じた。花葉の池では鯉は見えなかったが、亀が独り甲羅を干していた。細丸太の手摺りの栄唱橋のたもとに大きな枝垂れ桜が満開の花を付けていた。ここでも相互シャッターで記念写真を撮る。花と妍を競うの図式である。

  後楽園の出口にはしっかり土産物店とタクシー溜りがあった。ご期待に添って土産を買いタクシーに乗って駅に向かう。時刻は予定通り、オン・ザ・スケジュールである。
       ・君がため 惜しからざりし 予算でも 少なくもがなと 思ひけるかな
       (君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな)

松山の巻
  予定通り十六時十九分岡山発の特急しおかぜ十九号に乗り込む。相変わらずグリーン車はガラガラである。いよいよ未踏の四国入りである。瀬戸大橋での瀬戸渡りが明るいうちにと旅行計画は作られている。
  長いトンネルを抜けると海だった。瀬戸内海である。島が見える、船が見える。二階構造の大橋の上面を自動車が通っているのであろう。列車は下面ではあるが、海や船を真下に見ることができる。貨物船や釣り舟だろうか。これも良い景観である。左手の島々の向こうに小豆島があるのだろう。映画「二十四の瞳」の高峰秀子の面影が脳裏を過ぎった。右手の夕日は静かな海面に赤く映えている。平家の落日を連想した。
        ・瀬戸の島 数えるうちに 橋は終え
       ・瀬戸の海 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 一目に見ゆる 海人(あま)の釣り舟

       (わた海の原 八十(やそ)島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣り舟)

  橋のたもとの坂出コンビナート群の煙に四国経済の元気さを感じた。そこから西に折れて予讃線に入る。四国の鉄道はおおむね単線である。特急は鈍行を駅に待たせて追い抜いていく。列車は海伝いの郡部をひたすら西に走っていく。

  夕闇に山の形、家の形が影絵のようである。妻が突然に言った。「こんなに暗いのに、どの家も明かりを点けていないわ」言われてみると、民家のほとんどに明かりは見えない。よく見ると雨戸やブラインドをしているからではなくて、電灯を点けていないのである。いかに西国の四国とはいえ、夕方の六時ともなればテレビを見るのにさえ明かりが必要である。四国の人達は倹約家なのか省エネ家なのか、感心である。清水の母を思い出してしまった。
       ・単線の 四国の日暮れ 足速し

  十九時に松山に着いた。ホテル「松山東急イン」は駅から離れた街の中央にあった。堀端を走りながら気の良い運転手からいろいろ話しを聞く。松山市の人口が四十七万人だということ、路面電車の線路で運転し難いこと、五十一番目の札所が有名だということ…。ホテルはデパート三越正面の電車通りにあった。二百四十五室の高層ビルである。

  荷物を部屋に放り込んで夕食に出る。近くに大アーケード街がある。道幅が異常に広く、電車も通れそうである。商店街としては却って広すぎはしないかと、他人事ながら心配になった。地元料理を食べようと探したが、大通りにあるのは蕎麦屋ばかりである。裏通りに入ったら、地元料理とか家庭料理の看板や提灯が目に入った。

  入ろうとすると全て飲み屋である。妻が嫌うので大通りに出て蕎麦屋に入る。昨夜のご馳走が残っているのか、二人はあっさりしたものを探した。蕎麦の味はまずまずである。壁に古い蒸気機関車の写真が何枚も掲げてある。うへ、明日乗る土讃線はこんな縄文式機関車が走っているのか…と心配になった。するとその時、居合わせたもう一組の老夫婦が写真について亭主に聞いた。どうやらこの店の主は昔、満州鉄道で蒸気機関車を運転していたらしい。その思い出の写真だった。ほっとした。

  店を出てから見歩くほどのものもないので、明日の朝食用にとタルトを買い込んでホテルに戻る。テレビの番組は当然ながら千葉とは違う。ときどき登場する地元のコマーシャルが面白い。敢えて少しの訛りを入れてある。目覚し時計を七時にセットして就寝。すぐに白河夜船…四万十川夜船??

  四月十八日。熟睡のせいか、目覚し前に目覚める。妻もやがて目覚める。カーテンを開けると裏側は山である。目の前に鹿鳴館風のしゃれた建物が木立の中で朝日を浴びている。後に聞くと、迎賓館とのこと。地図によると万翠荘というらしい。山頂にかすかに城らしいものが見える。松山城に違いない。

  ホテル前からタクシーに乗って道後温泉に行く。道後温泉はよく旅行案内などで見る古風な日本建築の温泉宿(道後温泉本館のような)が連なっているものとばかり思っていたが、行ってみると通りの角一隅に写真で見馴れた建物(道後温泉本館)があるだけで、周囲は熱海と変わらないビルばかりである。まさに一点集中である。お決まりの記念撮影の後に入棺する。しっかり木戸銭は取られた。一階・二階は浴場らしい。

  妻がお目当てにしていた「坊ちゃんの間」は三階にあった。廊下突き当たりの西日を受ける六畳間であった。床の間に夏目漱石の彫像があり、壁には明治二十九年頃の松山中学の教師の面々、たぬき・赤シャツ・のだいこ・うらなり・山嵐たちの写真が掲げてあった。みな髭を貯えている。現代の教師も髭を生やしたら、生徒は言うことを聞くようになるだろうか。本館を出てからインターネットで入手した観光資料を見直してみたら、なんとこの「坊ちゃんの間」は息子婿の命名で漱石を偲んで作られたものとのことである。有り難味半減である。それでもこんなに観光客が来るのは、市役所の知略か?
       ・坊ちゃんも 黒山の客 予想せじ

  この本館三階の屋上にもう一つの名物「振鷺閣」がある。広さは約一坪で、周囲の窓には赤いギヤマンを嵌めた障子で、夜中央の吊りランプに火を入れると赤いネオン塔のようになったものであり、また吊り太鼓は現在でも朝夕に打ち鳴らされて、とき刻太鼓の役目を果たしているとのことである。

  「振鷺閣」の振鷺とは何かと後日調べてみた。辞書によれば振鷺とは鷺が群がり飛ぶことで、転じて潔白な徳をもつ賢者のたとえとある。その出典は詩経の「振鷺于飛」。鷺と潔白賢者のつながりは分からない。NHKの日曜番組の「日本人の質問」に投書してみようか。

<写真(道後温泉本館と振鷺閣)…略>

  道後温泉本館から少し下って、行きがけに目を付けておいた時計台に行く。道後商店街の入り口当るところで、明治時代と思しき高さ数メートルの赤い時計台と温泉源と銘打った水を吐き出す石塔があった。それだけであった。

  通りには観光客と地元の人が交錯しながら行き交っている。女学生の登校姿も見られる。おや、茶髪がいる、厚底もいる。ここもご時世なのだ。
        ・ 道後にも 厚底マドンナ あちこちに
       ・ 見せばやな 道後のあま女の がんぐろは 塗りにぞ塗りし 色は変らず

       (見せばやな 雄島の海士の袖だにも 濡れにぞ濡れし 色は変らず)

  タクシーを探していると、その近くに路面電車の停留所「道後温泉」があった。電車が止まっている。かなり錆付いて見えるが、りっぱなチンチン電車である。。妻の目が輝いた。迷わず乗車する。東京生まれの妻にはチンチン電車は珍しいのである。がたごと揺れるのも面白いようである。
       ・道後の湯 路面電車を 錆付かせ

  電車内で地元のおばあちゃんに地理を尋ねると、この人がまた気の良い人でお国訛りであれこれ教えてくれる。聞かないことまで教えてくれる。あっという間に、松山城へのケーブルカー乗り場のある通りとの交差点、「大街道」である。昨夜の大アーケード街の入り口、ホテルの近くである。そのまま右折してケーブルカー乗り場へと向かう。なだらかな上り坂、約五分である。

  そこには先客約二十人が始発を待っていた。電車式のケーブルカーとスキー場にあるリフトの二通りある。前者のほうが速いが、ダイヤの切れ目ではリフトが便利とか。また今日のような無風ではリフトのほうが眺めも良く、気分も良いとか。次の列車の時刻のこともあるので、とにかく登りの往路はケーブルカーにすることに合意した。
       ・松山城 ロープウエイに 春が来て

  降りてから城まで約十五分歩く。途中に廃車となった殿様の駕篭のような形をした路面電車が二両桜の花びらを受けていた。山門をくぐったところで眼前に高い石垣の上にはみ出しそうになった櫓が見えた。"危ないなぁ"と見ながら歩いていたら見事に躓いた。大きな荷物を担いで傍を歩いていた若者が心配して寄ってきてくれた。幸い怪我はない。しかし私が転倒した時に妻の脛を蹴ったらしい。赤く腫れ上がっていた。しっかり注意された。

  石垣のあちらこちらに大きな隙間がある。隙間から草が芽を出している。風情というよりは、リスク・マネージャーには不安全に見える。石垣が何となく無造作に積んであるような、あるいは長い年月で緩んでいるような…そんな感じに見えた。
       ・石垣の ゆるみに見たり 城の皺

  頂上には桜の老木が半分葉桜になった広場があり、その真ん中に城があった。賎ケ岳七本槍の加藤嘉明が関ヶ原の翌々年に建造したといわれる松山城である。

  桜と古城をバックに記念写真を撮るには絶好のところである。妻を立たせてシャッターを押そうとしてよく見ると、城は一部改修中である。白い工事用の遮蔽幕が写真構図の邪魔になる。何とか桜の花で幕を隠そうとしていたら、そこに先ほどの若者がやってきた。大きな荷物を解いて店開きを始めだした。なんと、写真屋である。

  団体さんをお得意とするプロカメラマンである。気安い会話の後に、写真構図についての私のアイデアを述べたら、彼は躊躇わずにそこよりもここからのほうが良いと言った。私はそれでは幕が隠れないといったが、彼は微笑しているのみであった。私は自分の考えに拘りがあったので、私の考え通りの構図で妻を撮影して、次にカメラを妻に渡してプロの写真家の言う構図通りに私を撮ってもらった。千葉に帰って原像・焼き付けするのが楽しみになった。彼は苦笑してみていた。

<写真(松山城前の二つの構図)…略>

       ・ 松山の お城の桜 咲きにけり 愛媛の霞 立たずもあらなむ
       (高砂の 尾上(をのへ)の桜 咲きにけり 外山(とやま)の霞 立たずもあらなむ)

  九時の開城時刻前のせいか、観光客はまだほとんどいない。時間の少ない私達は当ってくだけよと木戸に行ってみた。入場券は売ってくれたが「未だ準備中」と言って入れては呉れなかった。止むを得ず近くで松山市街や伊予灘を遠見しながら徘徊していたら、八時五十分に「掃除終わりましたから、どうぞ…」と言ってくれた。

  お役所仕事にしては柔軟な対応と感謝しながら大門をくぐる。小さな山城であるが、城内は白鷺城と烏城を折衷したような感じである。狭い階段登りも一番客なので自分達のペースでやれた。頂上で景色を眺めていると観光客が次第に増えてきた。結構高齢者が混じっている。杖を突くような腰曲がりの老婆がゆっくりゆっくり階段を上ってくる。一番客で良かった。この年寄り団体の後だったら時間を食ってしまい焦るだろうなと、再び時間前開門をしてくれた係の人に感謝をした。混み合わないうちに降り始めた。

  城のすぐ横手に観光スポット「松山城二之丸史跡庭園」がある。見たい気もしたが時間が足りない。案内板を見るだけで素通りした。ケーブルカー・ターミナルに来てみると、五分ほどの待ち時間である。しかしその隣のリフトには待ち時間はない。チケットはケーブルとリフトの両用である。天気は良し、風は無し…迷わずリフトに乗る。くだりのリフトは眺望絶佳である。後ろのリフトから妻に弾んだ声が聞こえる。「今度はスキーに行きたいなァ」彼女は大学時代にスキーをかなり楽しんだが、結婚以来一度も行っていない。眠っていたスキーのムシが目覚めたのかもしれない。スキー音痴な私は係累を恐れてムシすることにした。

  そこに「坊ちゃん」に登場する赤い矢絣の着物と紺の袴のマドンナが白いパラソルを手に持って下からリフトで上がってくる。カメラを向けると、にこりと営業用の笑みを見せながら「有り難うございました」と挨拶してきた。彼女の後ろのリフトには明治時代のいでたちをした巡査がいて、同じく挨拶してきた。観光担当の市役所職員であろう。松山の役人は堅苦しくなくて好感を持てる。東京や千葉では無理だろうな…。
       ・ 天つ風 リフトのロープ 吹き止めよ 乙女の姿 暫し留めむ
       (天つ風 雲の通いぢ路 吹き止めよ 乙女の姿 暫し留めむ)

<写真(登山リフト)…略>

  ホテルに寄って、預けてあった荷物を受け取り、タクシーで松山駅に向かう。

  少し待ち時間があるので、駅内の喫茶店に入る。飲み物に特徴はなかったが、壁の置き棚には妻の気を引く花があった。私にはその良さがよく分からなかった。その向かいの売店で車内食用の弁当を探した。次は松山から特急で宇和島まで行って、そこから鈍行で窪川に行く行程で十時十一分から十四時九分の予定である。鈍行には食堂車や車内販売が期待できないから弁当の買い込みをしようと思ったのだ。パンにしようか、おむすびにしようか…妻は迷っていたが、私は一目で満艦飾の五目弁当を選んだ。妻も同調した。妻は「美味しそうだから、おにぎりも追加したら」というが、そうは食えない。これでもダイエット中である。
       ・ 行き当たり 妻の買ふ飯 夜も食へ 昼も食へでは 腹をこそ下せ
       (御垣守 衛士(ゑじ)の焚く火の 夜は燃へ 昼は消へつつ 物をこそ思へ)

四万十の巻
  宇和島までは特急宇和海号が海沿いを快速で南下する。すぐ右が海、すぐ左が山である。山の急傾斜地に人家が多い。ここは和歌山から四国を横断している大断層:日本構造線の終端部である。一旦この断層がずれたらマグニチュード八ぐらいの大地震が起きるだろうことは疑いない。震度六か七になる可能性もある。あの崖、あの傾斜地…みな崩れるだろう。このトンネルも潰れるだろう。此処の住民は恐くないのだろうか。震度五か六がせいぜいの千葉で、老後資金を投じてコンクリート作りの家を建て替えた私にしては、恐くて住めないところである。

  宇和島で待っていた鈍行に乗り換えたら、すぐに発車である。一両のワンマン・カーである。昭和前期のイメージである。座席はサイド方式である。路面電車並みである。むろん単線である。乗客は地元の人達、七〜八人である。

  路線はやがて山肌、山合いを縫うように蛇行して進む。トンネルも多い。線路幅だけの路線が蛇行している。時速は三十キロから四十キロの超安全速度である。暫くして川と並行するようになった。四万十川の上流である。下流では筏下りや渡し舟もあろうが、こんな上流では何もない。せいぜい鮎がいるぐらいであろう。石の河原に無心の水が流れている。

<写真(四万十川)…略>

        ・ 四万十の 流れ集めて 太平洋
       ・ 四万十の 川、四万十の 景色かな
       ・ 山川に 自然の架けたる 柵は 流れも敢へぬ いはほ巌なりけり

       (山川に 風の架けたる 柵(しがらみ)は 流れも敢へぬ 錦なりけり)
       ・ あら嬉し この日の旅の 想ひ出に 今一度の 呑む事もがな
       (在らざらむ 此の世のほかの 想ひ出に 今一度の 逢ふ事もがな)

  駅は全て無人であり、省力経営の先端を行く。駅毎に二〜三人降りては二〜三人乗ってくる。差し引き、車内は常にがらがらである。そのほとんどがおばあちゃんである。聞こえる会話からすると村から町への通院らしい。四国の年寄りも苦労しているようである。

  退屈した妻が車内案内板にある駅名と録音テープ放送される駅名と比べて発見したような声で言った。「ねえねえ、此処の地名は面白いわよ」知名には当て字が多いから、面白い読み方が多いのも当然である。ここ高知県には大昔にポリネシア系の人達が黒潮に乗って丸木舟で渡来してきていたであろうから、鹿児島県・和歌山県・千葉県などと同様、あいら姶良とかいら伊良とかめら女良のようにポリネシア系言語を漢字表記するものもあるのだろう。

  目の前の駅名案内を自分流に読み上げていった。大体は読める。ちょっと変わったところで、「出目」は「デメ」、「吉野生」は「ヨシノショウ」か「ヨシノブ」、「半家」は「ハンケ」、「十川」は「トガワ」だろうと決め付けた。駅がだんだん過ぎていき、正解が次々と放送される。正解は「イズメ」「ヨシノブ」「ハゲ」「トオカワ」であった。妻にそれ見ろと突っ込まれた。「ヨシノブ」では勝ったが「ハゲ」には参った。

  次第に川幅も広くなった。十川に差し掛かると川を跨いだ二列の鯉流し(多くの鯉のぼりをロープに結んで川の上空を横断するもの)が見られた。テレビや雑誌で見ることはあっても実物は妻も私も初めてである。元祖は群馬県らしいが、ここでの鯉流しも結構なものである。
       ・ 十川(とおかわ)は 鯉が列なし 空泳ぎ
       ・ 四万十を 跨ぐ鯉流し 風吹けば いでそよ人は 忘れやはする

       (有馬山 猪名野笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする)
       ・ 伊予土佐の 嶺より落つる 四万十の 鯉ぞ連なり 列となりぬる
       (筑波嶺の 嶺より落つる 男女川(みなのがは) 恋ぞ積もりて 淵となりぬる)

<写真:十川の鯉流し…略>

  単線運転にすれ違い走行はない。何処かの駅で待ち合わせの行き違いである。ところが、行程既に半ばを超えるもいまだ対向車を見ずである。もし、このまま終点まで行くとしたら、上り・下りのダイアはすごく間伸びたものとなり、不便であろうと心配していたら、土佐大正という駅で待ち合わせ停車があり、ほっとした。しかし、何と三十分もの待ち合わせである。

  土佐昭和と並ぶこの土佐大正は大正時代に開けた山村なのであろう、トイレがあるだけの無人駅で、降りて暇つぶしをするものもない。これこそ、車昼食タイムである。みれば地元乗客の人の中には、当然の如くにパクついている人もいる。郷に入って郷に従わざるは不可なり。早速松山仕入れの五色弁当を紐解く。いろいろな具が醸し出す味はグッドである。妻も美味そうに食べている。飲み物は自販機で買ったお茶である。妻はストローで飲み、私は口飲みである。

  田舎の三十分は長く感じる。ようやく対向車が来た。これで予土線も車両一台での折返し運転でないことが分かった。

  終点一つ前に若井駅がある。似たような古い山村である。終点の窪川までの路線に別状はない。しかし、この一駅の区間はJRではなく、第三セクターの路線なのである。窪川の改札でしっかり「一人二百十円也」の別料金を徴収された。妻の憶測によれば、地元有力者達が結束して名ばかりの鉄道会社をでっち上げて、不労所得を得ているのであろうということである。案外そうかもしれない。二十一世紀を目の前にしておかしなものがまだ残っている。

  窪川は観光するために下車したのではない。松山の次に最も合理的な旅程で高知に到着することを年頭において計画を策定したのであるが、どうしてもダイアがマッチングしないのである。止むを得ず窪川で約一時間半の列車待ち合わせとしたのである。この時間の有効活用のために、インターネットで調べたところ、近くに「四万十緑林公園」があることを知った。「四万十」「緑林」…良い響きである。きっと素晴らしい自然公園があるのであろうと思った。

  コイン・ロッカーはプラットフォームにある。普通は待合室にある。珍しいことである。それで足りる必然があるのであろう。

  小さな駅とはいえ、駅前に数台の客待ちタクシーがいた。地図は頭の中にはあったが、念のために近くのマイカー・ドライバーに公園までの道のりを聞いた。「歩いて何分ぐらいですか?」彼はやや逡巡して「歩いてねぇ……」と言い淀んでいたら、隣のタクシー運転手が窓から顔を出して「三分ぐらいだよ」と教えてくれた。「有り難うございました」二人に礼を述べて、駅前の通りを北上した。

  すぐ近くの土産物店のような店を覗くと、民芸グッズを販売している。中に入ると、さまざまな民芸品の中にふくろうの彫り物や作り物がぎっしり並んでいた。ふくろうには目のない妻である。我が家の勝手場の出窓には小さなふくろう達がひしめいている。私もかなり協力している。仕事で地方に行った際は、菓子の類は肥満の元と敬遠されるので、荷物にならないふくろうグッズを探してくることにしているのである。早速、厳選の上に数点のお買い上げである。

  道脇の民家にはプランターを家の前に出しているところが多く、色とりどりの花を植えている。暖かい南国のそよ風に一つ一つの花びらが踊っている。「あの花は○○、この花は△△」と妻が解説してくれる。

  何分か歩いて、道向こうのおばあちゃんや下校中の小学生達に残りの道程を尋ねる。いずれも「もうじき」という。ややへばりを見せた妻は、路端の自販機(自販機はこの町では数少ない)に缶ジュース・ナッチャンがあることを発見した。タレントの田中麗奈(孫の玲奈とは字が違うが)がテレビCMで紹介しているものである。一息ついてまた歩く。十分以上歩いても未だ見えない。「三分ぐらい?……、四国の人は健脚なんだね」と感心しながら歩く。

  通算十五〜六分して、ようやく目指す公園に到着した。広い、広〜い公園である。ほとんど無人のグラウンドがあり、コートがあり、遊具がある。立派すぎる公園管理棟の前の案内図を見ると、「運動公園」とある。県民の健康と体力作りにと大枚の税金を投じて山合いを開いて大公園を作ったものの、春の好天気の日でも利用者がいないという地方行財政絵巻き的な観光地である。

  落胆に肩と歩調を落として駅に戻る。三分とは徒歩ではなく、車でのことと納得した。駅の待合室には売店がある。岩海苔と鰹の生節を土産に買う。ベンチの土地のおばあちゃん達と気さくな会話を楽しむ。「おばあちゃんは若いから…」の煽てにもよく乗ってくれる。別れる時は手を振ってくれた。地方旅行の良さである。

  高知行きの特急あしずり二号のグリーン車も貸し切り同然のガラガラである。左側に山が迫る農村風景が続く。民家のほとんどは急傾斜の瓦葺きである。ここは台風の通り道に適応した屋根の作りの工夫である。人類長い歴史の中での文化遺産である。しかし、台風対策と地震対策は相反する。重心位置が高くなる瓦葺き、屋根の急勾配が地震の際に家屋転倒、屋根材崩落を招き易いことは先の阪神淡路大震災の例を見るまでもあるまい。

  高知が近づくにつれて、太陽光エネルギーを活用するために屋根に取り付けられたソーラー・パネルが目立つようになってきた。これは都会人の地球環境意識の高さによるものか、都市文化の電気製品依存度の高さからくる電気料節約の逼迫性によるものか…と考えた。

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